さすがにアヒージョ

最愛の人が何人もいるタイプ

祖母の戦争の記憶を残したい


祖母の戦争の記憶がかなり鮮明。

残しておく。


祖母は日本海側の生まれ。


88歳、「満州事変の年に生まれた」。


「あれはなんて変な時代だったんだろう。」


「戦争だけは絶対にやっちゃだめ。人と人が殺し合うんだから。」


隣県 福井に爆撃が落ちる様を家の前で目の当たりにした。


空は赤く染まり、戦闘機からミサイルが落下していくのを覚えている。


「戦争が終わった時のうれしさを一番覚えてる。

これで食べるのに困らないって。」


祖母は4人きょうだいの長女だった。


週に一度日曜日、米農家の親戚を訪ねる。

米を分けてもらうためだ。

リュックを担ぎ、4キロの道を歩む。


米と引き換えに母の着物を差し出す。

戦争が終わる頃には着物はすべてなくなった。


始発の電車で帰る。

警察に見つかれば米はすべて没収されてしまう。


おなかに巻いて忍ばせた。

帰宅し、一眠り。そして朝すぐに学校へ。


それが日常。


着るものにも不自由したとは。


「お古の制服をもらう。それでスカートのひだを全部ほどいて裏返しにするの。

裏の生地はきれいだから。全部縫った。」


靴も配給の対象だったが、

教員をしている父のツテもあり、ズックがもらえた。サイズの合う合わないは言っていられない。


普段ばきもなくなり、板を買ってきて下駄に。

それもなくなると藁を手に入れて、百姓出身の父が草履を編んだ。


「一番好きな叔父さんだった。

夏休みになるたび泊まりに来て、羊羹をいっぱいもってきてくれた」


そんな叔父は戦闘機で旅立ち、

戻ってきたのは桐箱に入ったワイシャツ一枚。




出撃前に脱いだワイシャツ。

くしゃっとした一枚はいつまでも居間の片隅に置かれていた。


本物に詳しかったから、帰省時には必ずボール紙で飛行機の模型をたくさん作ってくれた。


今でも羊羹を見るたびに思い出す叔父さん。

いい人だった。いっぱいの羊羹。


日本は絶対に勝つ。

そう教わってきた。

信じ込んでいた。



地図を見ればあんなに大きな国に敵いっこないことはわかるのに。



戦争を主導した当時の国上層部は本当に無知だった。


なぎなたで倒せっこないのに。


爆撃を逃れるために夕方になると家の明かりは忍ばねばならなかった。

黒いカーテンをかけ、電灯を蚊帳のようなもので煽っていた。


祖母からは何度も

「戦争が終わった時、本当にうれしかった。」

「あの時代は一体何だったんだろう。」

が繰り返された。


羊羹をたくさんくれた、最後にはワイシャツしか残らなかった叔父さんのことも、改めてまざまざと思い返されるようだった。


祖母は中学に入っても、高校に進んでも、その後の結婚や仕事生活においても戦争時代について深く顧みることはなかった。


しかし現在、ふと

あの時代は何だったんだろう。

と、色々が鮮明に蘇っている。


祖母にとり、今の時代が最も平和で心穏やかな時代であることは間違いない。


祖母の世代は戦争を12歳で経験し、高度経済成長期や昭和、平成を過ごし、今この令和を生きている。


その間に凄まじい変化があった。


想像するだけで、その激烈な変化に気が狂いそうだ。私には卒倒しそうな体験量。


(だって冷蔵庫すらなかった時代。庭に3mくらいの穴を掘り、野菜をしまっていた。)


祖母がこうして今の時代まで生きていてくれてよかった。

語られた戦争時代の日々は壮絶で、当事者の経験した痛ましさと時代の異常性は言葉を失う。


改めて、戦争は絶対にしてはいけない。

日常のすべてを奪い去られ、行動は死に直結し、生死の意味は喪失する。

個人の生活は一瞬にして戦況の進捗の1ページとして吹き飛ばされる。

祖母の目に移った戦火にはたくさんの普通の人々が苦しみ叫びながら飲まれていたはずだ。


祖母は「戦争は絶対にいけないことだとみんなに言いたい。それは自衛隊の人にも言いたいことだ。」と。


いかなる動機があっても、戦争はしない。させない。


切実な祖母の思い出を残したい。

そして改めて反戦への思いを持ち続けていく。