さすがにアヒージョ

最愛の人が何人もいるタイプ

五輪が強行された日に読む「蠅の王」

蠅の王

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読みながら血を流すような厳しい読書体験だった。今を生きている我々で、この物語を無傷で読める者はいないだろう。

ウィリアム・ゴールディング「蠅の王 新訳版」黒原敏行 訳


無人島に漂着した少年たち。(この時点でジャニーズJr.かトゥバエンハイフンあたりにやってほしいと思ったものの、読み進めるうちに完全撤回。)

少年たちは救助を待ちながら、自治で束の間の楽園生活を楽しむ。しかし、ある一人をきっかけに集団からは次第に理性が失われ、やがて島は暴力に染まっていく。


この物語の恐ろしいところは、「正しさ」がどんどん「集団心理」「暴力的な本能」に追いやられていく様子だ。そして発言の内容ではなく「誰が言ったか」に物事の判断を任せることの危うさ。「誰が言ったか」を判断基準に、正しい助言に耳を貸さず、目先の欲望の解放こそが優先されると見誤る。本書は「未知の不安と恐怖」を前に「理性」がいかに「集団」の中で脆く敗北していくかを描いている。


少年たちは、主人公ラルフを中心に「救助してもらうために焚き火で煙を上げなくては。目印となる火を絶対に絶やしてはならない。」という意見の下まとまる。船との遭遇が絶望的な無人島において、何より火を。

ところが暴力と支配欲に取り憑かれたジャックにより、集団の調和は悉く破壊されていく。ラルフは何度も「救助してもらうための目印の火をたやさないこと」の重要性を訴えるのだが、拙い狩りを引き金に暴力性に目覚めた彼らはまったく耳を貸さなくなる。何度考えても、優先すべきは狩りをすることではなく、救助を待つ狼煙を絶やさないことなのに。何度正しいことを訴えても、皆が横道に逸れるもどかしさ。初めは理性的に、もしくは従順にルールを守っていた者たちが、全く話の通じない相手になってしまう恐怖。狩りで獲物を殺した時の恍惚、肉が食える喜びとに目が眩んだ彼らに、理性的な説得は届かない。彼らはいつ来るかわからない救助を待つために地道なことをするよりも、新たに目覚めた力を奮うことに夢中になってしまうのだ。豚を何頭狩って食べたとしても、火が絶えれば救助の見込みはないのに。


ジャックのやり口は巧妙で邪悪の限りだ。元々言いなりにできていた古巣のメンバーたちを従え、飢えた者たちを肉で釣り、反発した者には暴力で制裁を。

正しいことを話すピギーをけなし続け、妨害し、冷笑的なムードを醸成する。その結果、皆は話の中身に至る前に聞くことをやめてしまう。笑っていい者を笑っていられる立場にいられることに安心してしまう。ピギーを頼っていたラルフですら、彼を侮る気持ちを捨てきれなかったという痛恨。いかに余計なことを削ぎ落として事実だけで議論できるのか。それがどれほど難しいことなのか。シンプルに考えれば正しいことが、人の欲望が幾重にも絡んだ途端に軽視されてしまう。


少年たちは何度も集会を開く。ほら貝を持った者だけが発言できるルールに従って。

人と人が集まって話をする以上、脱線は避けられない。何度も何度も脱線し、派生したものに気を取られ、はたまたこんなことより大事なことがあると他の話題に意識を逸らされる。途方もなく骨が折れ、息が切れる。私たちが言っていることは相手に何も伝わっていないのか。意味が通じないのか。私たちが大切だと思っていることはこれほどまでに無視され続けていいのか。無力感に包まれ立ち尽くす。


最後に、ピギーのセリフを引き、これを私の防弾壁とする。

弱視のピギーにとって生命線である眼鏡を、火を起こすためにジャック陣営からリンチで奪われたピギーの言葉だ。


「ぼくはほら貝をもってあいつのところへ行く。

あいつにほら貝をつきつけてやる。ぼくはこういうんだ。

いいか、きみはぼくより強いし、喘息持ちじゃない。両目でちゃんとものが見える。だけど、ぼくはきみに眼鏡を返してくれとお願いしたりはしない。卑怯な真似はやめてくれと頼んだりはしない。きみが強いからお願いするんじゃないんだ。正しいことは正しいことだから返せと要求するんだ。さぁ、眼鏡を返せーーー返さなきゃだめだ!ぼくはそういってやるんだ」