さすがにアヒージョ

最愛の人が何人もいるタイプ

祖母の隠しトラック

私の家のあたりはちょうど学校帰りの小学生たちの興奮がピークに達する場所らしく、毎日3時手前は大騒ぎである。あまりに激しく奔放に叫ぶもので、家の中の私は勝手に気圧される。

 

最近は電話の嵐。祖母からの。毎日変わることのない訴えは「家に帰りたい」。不本意な状況への苛立ちに支配された祖母にフォローの言葉は届かない。「そんなやさしい言葉でうまいこと言ったって駄目よ」本来が明晰な彼女の責めはなかなかに厳しい。

 

これはまずい。外に出よう。部屋中に電話への恐れが満ちる前に。

 

名前も知らない花を好きだと思う道々で、今は春だと実感する。人の家のハナミズキがきれい。塀からのぞくあのピンクの花は何て言うのかしらん。

それにしてもこの暑さはどうしたことだろう。つい最近までダウンを着込んでお花見をしていたというのに。今日の私は半そでだ。あっけなく季節がやってきては去り、馴染んだと思った瞬間もうあの上着の出番はない。過ぎる日々の中で治癒するものとしないものと。開いた穴はふさがらないまま。

数日前はもう連絡をとることのない友達の誕生日だったらしい。美人で危なっかしかった子。なんであんなに無防備でいてくれたの。

徐々に距離が開いていって、「あ、もうこの子と私はこれから別々なんだ。」と妙にハッキリわかった日のことを鮮明に覚えている。それよりもっと手痛い離別もあったけれど、傷も残さず遠ざかった人々のことも案外ずっと一緒に思っているのだ。

 

遡及効の禁止、という法律用語がある。たとえばたった今「おにぎりを食べることは犯罪である。」と制定されたとしても、昨日おにぎりを食べたことは罪に問われないってこと。例えがかなりアホそうになってしまった。無茶苦茶な転用だが、同じように今再現不能になってしまった人間関係も、過去までは消滅させない。ともに過ごした日々は独立した星になって宇宙のどこかにゆらゆらと在り続けているはずなのだ。じゃなきゃあんなに空に星が多い説明がつかない。

つまるところ。今の祖母は隠しトラック。数秒の沈黙の後始まった曲は意外な展開を迎えたけれど、本編はなかったことにならない。むしろ全人生かけて教わっているのかもしれない。

大丈夫になることも、ならないことも。そのほとんどは意外と大丈夫じゃない。平気なふりをしてるけど実際しっかり食らってる。そして気づけばたくさんたくさん歩いているのだ。それでも私の足は少しづつ確実に、治ってきている。夏のふりした春の日。