さすがにアヒージョ

最愛の人が何人もいるタイプ

法事と泳ぐ心

法事に行った。

 

祖父の24回忌だ。

私は22歳なので、祖父には一度も会ったことがない。

 

けれど私は祖母も、祖母の街も好きだからほぼ毎年必ず参加している。

 

お経ってわからない。

どんなに通夜・葬式・法事なれしようと未だに意味がわからない。

さすがにお焼香とか南無阿弥陀仏がそろそろ来るな、というくらいはわかるけど。

 

内容がわからないものを聴いている時、人の心は泳ぐ。

思考というのは止められないものらしい。

なるべく祖父を偲ぶ方向に気持ちを寄せようとするものの、私の脳はてんでばらばら。

「あの友達どうしてるかな」

「今夜あたりあの子に電話しよう」

「お腹すいたな」

まるで一か所にとどまってくれない。

 

不意に、このような儀式の意味に思いを馳せた。

参加者各々の脳みそは制御できない

しかしお経の間私たちはスマホも触らず、ただそこにいる他ない。

せめてその間だけは同じ故人を偲ぶためだけに一定の時間を過ごす

 

たった30分のお経である

祖父が亡くなったのは73歳

73年という年月

途方もなく長いその年月を偲びきることなんてとてもできない

 

たとえ短命で亡くなった人だとしても、人の一生の内容量はつかみきれない無限の宇宙。

 

私たちは知っている。

日々はただ続き

どんなに願ってもいっときに留まることができないことを

一時停止不可能な年月のことを

 

毎秒私たちの日々は無で済まされない

圧倒的な経験と無限の営みに溢れている

自分でも捉えきれない日々のすべてを

 

その時がついに止まった人への想像

すべてすくい切るなんてとても無理だ

 

だけどせめて今だけは

思い出す

知らなくても想像してみる

つかんでみようとする

願いを託してみたりもする

こころみに語りかけるのは毎回のことだ

 

おじいちゃん、こんにちは。

22歳になりました。

働き始めました。

どうかおばあちゃんを見守っていてください

 

かたちばかりでも、等しく形を残すために

 

そのためにこんな儀式はあるのかもしれない。

意味の理解の有無に関わらず、続いていくために存在する「形式」というものに込められた人の合理さやさしさを想う。